『青言葉』の青峰です。
自分の役目である「青」に生きるとき「こうしなければならないから」は存在せず「やりたい」があるだけです。
僕も「自分の好きな事のために、やらねばならないことはある」と思い込んでいたのですが、「やらねばならない」をつくっているのは自分であると認められたとき「やらねばならないは無い」と結論をつけられました。
ただ、それを言っても中々腑に落ちないという人も沢山見てきましたので、自分自身や他の方の「やらねばならない」と向きあって得られた視点を、書いてみたいと思います。
「やらねばならない」は執着のため「やりたくないことをやる」
「こうしなければならない」という事は基本的に「やりなくないこと」です。
「やりたいこと」には「せねばならない」という気持ちは起きないですし、ほっていてもやるから。
やらねばならないを掘り下げていくと「争いたくない」「お金が無い」「人に頼むのが苦手」など表現は色々とありますが、根本原因は「その人の執着」です。
例えば「家の掃除をやらねばならない」と思っているのは「私が掃除しないと家が汚くなる」「家族は掃除をしてくれない」などと出てくるのですが、本質を観ると「家の人に頼むと自分が仕事をしていないように見られてしまうのが嫌」というような執着だったりします。
自分で気づいて対応できるレベルの浅いものでしたら、出てきたものに向きあって「家の人に頼む」「掃除サービスに依頼する」というような行動に出れば解決するのですが、中には「その人が向きあいたくない」とフタをしてしまっていることもあり、フタをしている期間が長いと「フタをしている意識もない」状態になるため、一人で洗い出すのは困難になります。
そして呪縛のように「私はしなければなない」と「やりたくないこと」を続けるようになります。
「しなければならない」を続けるほど、改善までの道が重たくなるので早めに解消するほうが楽です。
というのも、一定の重たさを越えると執着が見つかっても改善について「できない」が出てくるからです。
執着が見えても改善が「できない」理由
「できない」の意味は「そこまでしてやりたくない」という事は別の記事で書きました。
この考え方の通りでみると「執着を改善できない」のは「こうしたい」が明確になっておらず「熱量が持てない」という理由がみえてきます。
「したい」という思いが強いほど「そこまでしてやりたくない」の「そこまで」を乗り越えられるようになります。
また「やらなければならない」という言葉が出てきたと言うことは「向きあって、執着を手放す必要がある」という合図でもあるので、「何のために」やらなければならない事を手放したいのかを明確にすると「青に生きる」へ繋がっていきます。
そして、僕自身がいつも伝えている「自分の役目(青)を言葉にしよう」といっている理由は「本当に好き」からの「したい」は無限の熱量になるため「できない」という選択肢が無くなるからです。
「そこまでしてやりたくない」を手放すための「行動が出来ない」と思ったときは「自分が熱量を持てる所」を探してみましょう。
「やらねばならない」は無いので、向きあって手放そう
やらねばならないは結局「やりたくないことをやっている」ので、「青に生きる」から遠ざかっていきます。
そして「自分の役目を果たすため」に「やりたくないことをやる」は最終的には存在しないため「やらねばならない」が出てきたときは手放して貰って問題ありません。
やらねばならなかったのは「何かを学ぶため」
何かをやりたいと思ったときに「これをしなければならないから出来ない」となった場合は「学びが終わった」という合図なので、手放して「やりたい」と思った事を始めればよいと思います。
最終的には「やらねばならない」事は無くなって「やりたいこと」だけをやっている状態が「役に立つ状態」です。
「やらねばならない」の奥にある「やりなくない執着」を明確にして、青く生きていきましょう。
やりたいことに向かって、やらねばならないは誰かに依頼しよう
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